鉄甲船伝説(参考史料)

[史料2] 『耶蘇会士日本通信』パードレ・オルガンチノの都より發したる書簡

當地の事は既に尊師に書き送りたるが、其後起こりしは昨日日本の重要なる祭日(盂蘭盆会)に信長のフネ七艘堺に着きたる事なり。右は、信長が伊勢国において建造せしめたる日本国中最も大きく、また最も華麗なるものにして、王国(ポルトガル)の船に似たり。予は行きてこれを見たるが、日本においてこのごとき物を造ることに驚きたり。信長がその船の建造を命じたるは、四年以来、戦争をなせる大坂河口にこれをおき、援兵、または糧食を搭載せる船の入港を阻止せんがためにして、これによりて大坂の市は滅亡すべしと思はる。
  船には大砲三門を載せたるが、何地より来りしか考うること能はず、何となれば、豊後の王が鋳造せしめたる数門の小砲を除きては、日本国中他に砲なきこと、我らの確知する所なればなり、予は行きてこの大砲とその装置を見たり、また無数の精巧にして大なる長銃を備へたり。
  毛利方よりは四月にあらざれば援兵の来ること不可能なるが故に、此間に大坂は亡ぼさるべしと思はる。大坂の一向宗の悪宗派はデウスの教が當都地方に於て有する不便妨害の中最大なるものの一なれば、我等の主右の如く定め給はんことを祈る。信長は大坂市の周圍に蒔かれたる稲を刈ることを命ぜんとすと傳へらる。之により大坂の日は終了すべし。既に右の船の噂を傳聞し、此両日中に多數の人密かに大坂を出でたり。
  信長の重立ちたる部将の一人藤吉郎殿は又播磨國に於て三城(野口、神吉、志方の三城)を占領せり。而してカンキ(神吉)の城を取りたる後、之に近き三木の重要なる城を攻めんとす。かくて信長は其の大なる努力と部将等の熱心なる盡力とに依りて既に占領したる諸國の外に播磨國を占領すべしと思はる。

[史料3] 『信長公記』

勢州の九鬼右馬允に仰せつけられ、大船六艘作り立て、並びに、滝川左近、大船一艘、是れは白船拵へ、順風を見計らひ、
  寅六月廿日、熊野浦へ押し出だし、大坂表へ乗り廻し候のところ、谷の輪海上にて、此の大船相支ふべき行として、雑賀、谷輪、浦々の小船数を知らず乗り懸け、矢を討ち懸け、鉄炮を放ち懸け、四方より攻め候なり。九鬼右馬允、七艘の大船に小船を相添へ、山の如く飾り立て、敵舟を間近く寄せ付け、愛しらふ様に持(もて)なし、大鉄炮一度に放ち懸け、敵舟余多(あまた)打ち崩し候の間、其の後は、中々寄り付く行に及ばず、難なく、
  寅七月十七日、堺の津へ着岸候ひしなり。見物、耳目を驚かし候ひしなり。翌日、大坂表へ乗り出だし、塞々に舟を懸け置き、海上の通路を止め、警固仕り候なり。

[史料5] 『信長公記』

  十一月六日、西国の舟六百余艘、木津表へ乗り出だし候。九鬼右馬允、乗り向ひ候へば、取り籠め、十一月六日辰の刻、南へ向つて午の刻まで、海上にて舟軍(ふないくさ)あり。初めは、九鬼支へ合ひ候事、成りがたく見え候。六艘の大船に大鉄炮余多(あまた)これあり。敵舟を間近く寄せ付け、大将軍の舟と覚しきを、大鉄炮を以て打ち崩し候へば、是れに恐れて、中々寄り付かず。数百艘を木津浦へ追上(のぼら)せ、見物の者ども、九鬼右馬允手柄なりと、感ぜぬはなかりけり。

 史料3は船の出航と堺への着岸の記事です。間に進路の妨害を図った雑賀衆らの水軍との戦闘をはさんでいます。史料4は、信長が堺に赴いて船を見物したときの記事です。

 そして史料5が件の船を含む織田方水軍が毛利方水軍を破った第二次木津川沖海戦の記事です。

 史料5を読む限りでは、毛利方水軍の損害は旗艦級とはいえ一隻だけです。その後は、大鉄炮の射程外まで距離をとって、そのまま退却してしまったという感じです。毛利方の敗北ではありますが、一般に言われるような「大敗」とか「壊滅」とかいう類ではなく、単に「形勢不利と判断して退却した」ということではないでしょうか。

[史料6] 『寛政重修諸家譜』 九鬼家家譜 九鬼嘉隆

(前略)
六年右府大坂本願寺の門徒をせむ。嘉隆またてきの通路をさ々へむがため大船五十餘艘を艤し、六月二十六日志摩國を發し、紀伊國熊野浦をめぐるのところ、同國雑賀浦より賊船五百艘許り押出して戦ひを交ふ。嘉隆これを近々とあしらひよせ、矢石を發し蠻国の火術をほどこし、賊船三十餘艘を乗とり、七月下旬堺浦に着船す。
九月二十七日右府住吉に着陣あり。他日嘉隆が船軍の調練をみむとの命あり。十月朔日嘉隆先に雑賀浦船いくさの行装をかたどり、兵船數艘をかざり、其餘大小の船を浮べ、懸引進退の術をつくす。右府淺からずこれを感じ、酒肴を呼び呉服十襲、金三百両をあたへられる。
十一月本願寺門徒の加勢として、六百餘艘の船西国より堺浦によせきたり、大坂にいらむとす。嘉隆兵船七艘をもつてこれを支へ、蠻国の火術を施し、敵船五艘を乗とる。右府其功を賞して志摩國七嶋、攝津國野田、福嶋等に於て七千石の地を加増あり、後志摩國鳥羽に城を築きて住し、伊勢志摩両國の内に於て三萬五千石を領す。

 『寛政重修諸家譜』は江戸期の寛政年間に幕府が各大名・旗本の諸家に系譜を提出させて編纂したものです。時代が下った史料で、当然どの家も自分たちの系譜のすばらしさを示したいので、脚色が強くなるという傾向があるようです。確かに『信長公記』と比較すると大船の数が五十艘になっていたりしていますが、それでも内容は大体同じようです。

 ここでもやはり、件の船の肝は「蠻(蛮)国の火術」、つまり『信長公記』でいうところの「大鉄炮」、オルガンティノのいう「大砲」のようです。

史料出典

  • 史料2
    村上直次郎・訳 渡邊世祐・注 『異国叢書』耶蘇会士日本通信・下 雄松堂書店 1928
  • 史料3、4、5
    桑田忠親・校注 『新訂 信長公記』 新人物往来社 1997
  • 史料6
    高柳光寿ほか・編 『寛政重修諸家譜』第十五 続群書類従完成会 1965