京堺商人衆と陶晴賢の流通政策

はじめに

 天文二十三年(1554)五月、毛利氏が大内氏に叛旗を翻す以前、すでに瀬戸内海は海賊がたびたび出没して商船を襲う異常な状況下にありました。海賊たちのターゲットは日向や薩摩で輸入品を仕入れる京都や堺の商人たち(以下、京堺商人衆)、及び彼らが雇う塩飽の船であったようで、彼らは瀬戸内海の往来さえ困難な状況に陥ります。
なぜ京堺商人衆は海賊たちに攻撃されたのか?そこから厳島を基点に瀬戸内海の流通支配を狙う陶晴賢、そして晴賢を動かした京堺商人衆自身の思惑がみえてきたりします。

 

「今程賊船多之而」

 [史料1]は厳島の大願寺の僧・円海から陶氏奉行人の伊香賀房明と毛利房継の両名に宛てられた書状です。年欠ですが天文二十一年(1552)、もしくはその翌年と推定されます。

 此の時期、京堺商人衆の船が海賊の攻撃を受けていた状況というのは、下線部「今程賊船多之而、室塩飽舟度々不慮之儀出来候、就其京堺商人衆各々致迷惑之由風聞候」(近ごろ賊船が多く出没し、室や塩飽の船にたびたび思いがけないことが起こっております。このことで京・堺の商人衆は皆大変に困っていると聞いています。)という円海の説明からうかがえます。

 九月には堺商人・宗光が、大願寺に「其方于今物騒無一定」や「海上も不静候」などと述べて厳島へ下向できないことを書状で伝えており(参考史料Ⅰ)、京堺商人衆の瀬戸内海ルートは完全に麻痺状態に陥っていたようです。

[史料1] 『大願寺円海書状』

 御奉書之旨、具以令拝見候、
松鶴軒就御歸落(洛)、京堺之商人駄別安堵料之内万疋之事、於京都可致調進一通之儀認、對法泉寺可渡申之通、被 仰出候、尤其旨存候、雖然彼駄別安堵料之儀者、於當嶋町諸国上下諸商人衆令内談、相調申事候之条、一通認對法泉寺難渡申候、但来九月十四日當町入事候之条、定而京堺商人衆早々可爲着嶋候之間、御奉書之趣則可申聞候、仍右就安堵料之儀、去十八日従房栄茂對堺商人衆、延引以外不可然之由堅被仰上候、同従當寺も其分數度申上候、乍去今程賊船多之而、室塩飽舟度々不慮之儀出来候、就其京堺商人衆各々致迷惑之由風聞候、何茂来法会ニ必右安堵銭之儀ハ可致馳走之通、堅固可申与候、又唯今 御奉書之段、房栄至御陣所急度可遂注進候、此等之趣、可然之様御披露所仰候、恐惶謹言、

      八月廿六日                          円海(花押)
伊香賀民部少輔殿
毛利 掃部允 殿

 混乱の最大原因は[史料1]の書状で円海が主題としている「駄別安堵料」でした。
[史料1]はこの駄別安堵料の陶氏(大内氏)への納入について述べたもので、京堺商人衆が大願寺や江良房栄(陶晴賢部将、厳島方面の責任者)の再三の要請にも関わらず上述の海賊被害多発を理由に納入を「延引」していることが記されています。

関係地図
関係地図

  この問題の発端は、天文二十年(1551)九月、当主・義隆を滅ぼして大内氏の実権を握った陶晴賢が、翌年の四月、「村上太郎」(能島村上氏当主・村上武吉)らに対し、彼らが厳島で京堺商人衆から徴収していた「駄別料」の権利を今後は認めないことを通告したことから始まります(参考史料Ⅱ)。ここで陶晴賢は、大内氏の代替わりに際して先代が能島村上氏に給付した権利の更新を拒絶したわけです。京堺商人衆が納めることになっていた駄別安堵料とは駄別料を停止させた晴賢が彼らに求めた、いわば「みかえり」だったのでしょう。

  以上のことから推定すると、京堺商人衆の船を襲っていた海賊とは、どうも晴賢の駄別料徴収停止の通告に反発した能島村上氏麾下の海賊であったようです。海賊たちは晴賢の通告を無視する格好で、これまでどおりに支配海域を無銭で通行しようとする不届きな船に対して制裁を加えていたのであり、それが「賊船」出没による「不慮之儀」となっていたのです。

 

駄別料徴収への抵抗

  この海賊問題によって、陶晴賢と京堺商人衆との間でも駄別安堵料の納入をめぐって関係がこじれていきます。

  その前に、若干、駄別料についての京堺商人衆の立場、動きを整理します。

[史料2] 「宣堯書状」

尚々商人衆覚悟、餘如在之仕合候、か様成儀を申捨ニ候て被上候之儀者、向後御分国中江下間敷覚悟候哉、不審千万候、
京ならびに堺津商人衆被申請駄別御免除候付而、御礼銭万疋之事、於京都御用之由候哉、難其儀成候哉、貴僧以御裁判、於厳嶋山口間可有調進通之御請文尤候、雖然於京都商人衆馳走候へハ、二万疋与被仰候、辻茂合候て可然候、定而従房栄具可被申候、又爰元之時宜申度候へ共、御使僧御存知候間、不能詳候、万開陣之時可申候、恐々謹言、
九月三日                     宣堯(花押)
大願寺上人御中

 [史料2]は「宣堯」なる人物から大願寺に宛てられた書状です。「宣堯」は書状の内容から陶氏サイドの人間とみられます。

  まず「京ならびに堺津商人衆被申請駄別御免除候」とあることから、既に述べたの駄別料停止は京堺商人衆の要請を受けてのものであることが分かります。堺商人は義隆の代から厳島などでの駄別料徴収について愁訴を行っていますが( 参考史料Ⅲ)、これも既に述べたように、義隆の時代は結局、厳島での徴収を停止させることは出来なかったようです。

 この京堺商人衆が能島村上氏に徴収されていた駄別料は莫大なものであったようで、[史料2]で駄別安堵料について「二万疋」(二百貫)という数字が出ていますから、これをはるかに上回る金額が徴収されていたということが推測されます。京堺商人衆にとっては、海賊衆の駄別料徴収は商売上、かなり頭の痛い問題だったわけです。

  さて、そこで天文二十一年四月、京堺商人衆はついに大内氏(陶晴賢)を動かすことに成功して、能島村上氏に駄別料徴収停止が布達されたのですが、いざ布達されると今度は海賊のターゲットにされて商売どころではなくなってしまったわけです。

 この駄別料問題が引き起こした海賊問題により、陶氏と商人衆の駄別安堵料納入に関する交渉は暗礁に乗り上げます。既に[史料1]の時点で再三の陶側の請求にも関わらず商人側は駄別安堵料を払っていませんし、[史料2]ではどうも納入交渉を打ち切って上方に帰ってしまったようです。宣堯はこの商人衆の行動について、「不審千万」と不満をぶちまけています。

  ですが、京堺商人衆に言わせれば、能島村上氏の海賊行為というのは駄別料を支払わない船に対するこれまでどおりの対応であり、いくら駄別料徴収の停止を通告したからといって、相手に認めさせなければ何ら意味の無いものです。それゆえ海賊問題が解決しない以上、対価としての駄別安堵料の納入などありえない話だったと思われます。

  とはいえ、京堺商人衆は、晴賢との交渉を本気で打ち切るつもりだったかというと、そういうわけでもないようで。既に少し触れましたが、同じ九月、堺商人・宗光は大願寺に使者として「薬屋之与右衛門」を派遣し、翌年三月に下向予定であることを伝え、実見したいので陶晴賢が堺商人に宛てた判物を彼に渡すように頼んでいます。( 参考史料Ⅰ

  いずれにしても、強力な勢力を背景にして流通支配を通じた新たな財源の確立を模索する陶氏(大内氏)と、強力な権力による流通ルートの保護と保障を求める京堺商人衆の利害は、基本的には一致したものでした。

 

厳島合戦とその後

  しかし結局、陶晴賢は厳島合戦で大敗して自刃し、大内氏も滅亡への道をたどります。かつては親大内氏の立場であった能島村上氏は、厳島合戦において中立、ないし敵対の姿勢をとっています。同じく駄別料停止などの晴賢の急進的な経済政策による厳島、瀬戸内海の混乱が毛利方の調略に有利にはたらいたことは想像に難くありません。

  陶晴賢がとった海賊による海上支配の否定という方向性は、京堺商人衆など瀬戸内を往来する商人たちが希求し、そして後に豊臣秀吉が海賊停止令を発布したことにみられるように、大きな時代の流れには沿ったものではありました。しかし、クーデター直後の混乱の渦中にある大内氏に、急進的政策に対する反発へ速やかに対処する能力はなく、その能力の限界が致命傷へといたる問題を生むことになったのです。

  厳島合戦後、毛利氏と結んだ能島村上氏ら村上海賊衆はさらに強勢となり、塩飽や上関をはじめとする各地の海関(札浦)で公事を徴収するなど瀬戸内海全域にわたる海上支配を展開します。京堺商人衆にとっての厳島合戦とは、権力によって支配された安定した瀬戸内海流通という方向性を真逆に転換させ、強大な統一政権が登場する数十年後まで再び彼らに難渋を強いるものとなってしまったわけです。

  その時、歴史は動かなかったのです。(それが言いたいだけか

史料一覧

主要参考文献

  • 河合正治 「瀬戸内海史上における厳島合戦」 (『中世武家社会の研究』 吉川弘文館 1973)
  • 岸田裕之 「人物で描く中世内海流通と大名権力」 (広島県立歴史博物館 『海の道から中世をみるⅡ 商人たちの瀬戸内』 1996)
  • 鈴木敦子「地域市場としての厳島門前町と流通」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000」