宇津神社(七郎大明神)

うつじんじゃ

 大崎下島の大条浦(現在の広島県呉市豊町大長)に鎮座する神社。大三島大山積神社の第七番目の末社。中世、七郎大明神と呼ばれ、大条の住民や領主・小早川徳平家の人々に崇敬された。

宇津神社の社殿。
宇津神社の社殿。

「七郎大明神」の成立

 享和元年(1801)頃に成立した「宇津神社本社末社棟札控」によれば、宝亀四年(773)に禍津日神を祀ったのをはじめとし、建保五年(1217)に神直日神と大直日神を勧請合祀した。また「七郎大明神」という呼称の始まりについては、正安四年(1302)、本社の大山積神社に長屋一宇が建てられ、大祝安俊が遷宮を行事し、以降これを七郎大明神と号したとしている。大山積神社の「御鎮座本縁」や「社記」にも同様の記述がみられる。宇津神社の祭神の禍津日は、このときの長棟の社殿に祀られた十六柱の神々のうちの第七番目にあたるという。

 ただし、宇津神社に残されている文保二年(1318)十一月の社伝造立棟札には「漆(七)郎王子宮御社」という呼称が用いられている。この時の造営は藤原久道という人物が大願主となり、大三島の大工とみられる「友継」や「友延」「友光」「友永」らが大工、小工として関わっている。

小早川円春による社殿造立

 「七郎大明神」の初見は永享十二年(1440)六月の棟札まで降る。この時「沙弥円春」(小早川円春)が大願主となって社殿を造立。「大条之神人」や「御百姓等」が結縁したこと、大工として「右衛門尉越智重正」らが関わったことが記されている。また領主・小早川氏(徳平家)の氏神となっていることもうかがえる。

 先述の「宇津神社本社末社棟札控」には文明八年(1476)の春に本郷谷の南から現在地の石原に移ったとの伝承が記されている。同年の社殿造立棟札も残っているが、これは形式から後代に作成されたものといわれている。

16世紀後半の社殿造立

 社殿の移転から約九十年後の永禄十年(1567)、新たに社殿造立が行われた。この時の棟札によれば、本願主は「平朝臣吉信」。左近大夫が普請奉行となり、大工は蓮実新五郎がつとめた。また「大条之御百姓」らが神田を売って経費を工面して造営を行ったことが記されている。小早川徳平家の名は見えず、既に滅亡したか窮乏していて大願主となり得なかったことが推測される。

Photos

宇津神社の鳥居と参道。 御神木、ホルトの木。樹齢1200年以上といわれる。 百手神事(弓祭り)。平安時代から続くといわれる宇津神社の神事。 百手神事の一場面。 百手神事の一場面。 大長の八王子社。宇津神社は元々はこの地にあり、文明八年(1476)に現在地に移ったといわれる。

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 豊町教育委員会・編 「豊町史本文編」 2000

  • 豊町教育委員会・編 「豊町史資料編」 1993