遍照寺

へんしょう じ

 港町・笠岡の中心部に位置、同町の文化的中心をになったとみられる真言宗寺院。

遍照寺多宝塔。国指定重要文化財。昭和52年(1977)の土地区画整理で移転した遍照寺の旧境内地に現在も残る。江戸初期、笠岡を支配する幕府の備中代官・小堀氏の支援により慶長十一年(1606)に落慶した。以後、幾度かの修理を経ながらも、各部の保存は良好という。
遍照寺多宝塔。国指定重要文化財。昭和52年の土地区画整理で移転した遍照寺の旧境内地に現在も残る。

 寺伝によれば、元弘年間(1331-1334)に笠岡の国人・陶山氏によって現在の笠岡市吉田から移されたとされる。この時期は陶山氏が笠岡山に城を築いて移ってきた時期でもあり、城下振興の一環として笠岡の中心に据えたともみられている。

  京都の北野天満宮経王堂において、応永十九年(1412)三月十七日から一切経の写経事業が行われているが、この写経事業に遍照寺の僧の参加している。確認されるのは覚真、定泉、瑛乗、頼順、宥兼の五人で、彼らは事業の大願主・覚蔵坊と「旧識」があったという。一寺からの五人の参加はかなり多いほうとみられ、背後には幕府奉公衆として京都との関係を有する陶山氏の存在があったとも考えられている。

  その後、陶山氏の没落とともに衰退し、近世、幕府の備中代官・小堀氏のもとで復興が図られる。

岡山県笠岡市笠岡

 

Photos

遍照寺の楼門。吊るされている梵鐘は、銘文によると永享四年(1432)に津宇郡撫河郷隼島庄から丑寅御前(鶴崎神社)へ寄進されたことが分かる。その後、笠岡城を経て遍照寺に至ったと『備後略記』は記す。 遍照寺本堂。昭和52年(1977)の土地区画整理のさい、笠岡市西の浜に移築された。

関連人物

  • 瑛乗
  • 宥兼

その他の関連項目

参考文献

  • 笠岡市史編纂委員会・編 『笠岡市史 第1巻』 1983