浅水橋

あそうず はし

 浅水と浅水二日市の間の現・浅水川に架かる橋。かなり古くから架かっており、平安期の『枕草子』にも「あさむづの橋」としてみえ、『太平記』でも勾当内侍局が新田義貞を追って越前国に下向した際、「浅津の橋」のところで義貞戦死の報を受けたと記されている。

  浅水橋は北国街道における重要なインフラの一つであり、通行には橋賃が必要であった。長享二年(1488)八月、天台僧の真盛が一乗谷を来訪したときのことを記す「真盛上人往生伝記」によると、真盛に帰伏した朝倉氏が、諸関の関役と浅水橋における橋賃徴収を停止したとあり、朝倉氏が橋賃を徴収していたことが分かる。

 朝倉氏は同時に、街道のインフラ整備にもつとめており、大永元年(1521)、「浅水之金橋」架設のための出銭が南の水落に賦課されていた。このことから、浅水橋の維持・管理は水落など周辺の市町の財力で行われていたことが推定される。またここでは「金橋」とあることから、強度を確保するため一部に鉄材が用いられたともみられる。

  天正三年(1575)八月、大瀧神郷の紙屋衆中は、織田氏の府中三人衆(前田、佐々、不破)から、「上者木目を境、下者浅水之橋を境、東者境目、西者海端を境」を範囲とする領域において、諸役の免除が認められている。これは浅水橋が、越前国内における商業ブロックの境界指標としても認識されていたことをうかがわせている。

 

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 小泉義博 「中世越前国における北陸道」 (『日本海地域史研究第三輯』) 1981