大内 義豊

おおうち よしとよ

 冷泉興豊の父か。五郎、助四郎(あるいは介四郎)、下野守。幕府奉公衆・大内氏の一族とみられる。

兵庫津の救援

 冷泉興豊を祖とする冷泉家伝来の「冷泉家文書」には、文明元年(1469)十一月八日付で大内政弘が「下野守」と「助四郎」の親子それぞれに与えた感状が、一通ずつ残っている。冷泉五郎家文書を収める「萩藩閥閲録」102-2を参照すると、「下野守」は大内弘豊に、「助四郎」は大内義豊に比定できる。文安年間、幕府奉公衆の五番に「大内下野入道」がみえるので(「文安御番帳」)、彼らはその子孫であるのかもしれない。

 弘豊と義豊親子は摂津国兵庫津が「難儀」になった際に馳せ参じ、十月十六日の合戦に加勢した。義豊は負傷しながらも活躍し、政弘から賞されている。一方で政弘は「摂州錯乱之間、依不及合力」として下国をうながしている。当時、義豊らの拠点が摂津国にあったことをうかがわせる。子孫の冷泉興豊は同国得位時枝荘を安堵する足利義政の御判御教書を所持していた(『北野社家日記』)。

 同時に政弘は早々の上洛も要請しており、その際は「軍勢兵船已下」も申し付けるとしている。後年、冷泉興豊の子隆豊は水軍を率いて安芸国沿岸や伊予国島嶼部を攻撃していることから、既に弘豊・義豊らは摂津国で水軍を擁していた可能性もある。

周防大内氏領国への在国

 「冷泉家文書」には文明十年(1478)八月に大内政弘が「介四郎」に宛てて発給した預状も収められている。「介四郎」は上記の助四郎(義豊)と同一人物とみられる。義豊は豊前国宇佐郡や同国京都郡、筑前国席田郡などの所領を「在国之間」知行するように預けられた。「在国之間」とあることから、義豊は本来は在国している人間ではないとみなされていたことがうかがえる。また上記の所領は「伯父式部少輔跡」とされており、以前に「式部少輔」という義豊の親族が周防大内氏から所領を得ていたことが分かる。

 なお冷泉興豊は文亀二年(1502)に大内氏から周防国玖珂郡や豊前国宇佐郡の所領を預けられているが、預状に「在国之間」の文言はない。豊興の代では、拠点を周防大内氏領国に移していたと推定される。

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関連人物

  • 大内弘豊:義豊の父。
  • 冷泉興豊:介四郎義豊の文書は、興豊を祖とする冷泉氏に伝来した。
  • 大内政弘

その他の関連項目

参考文献

  • 須田牧子 「加賀の大内氏について」(山口県地方史研究会・編 『山口県地方史研究 第99号』 2008)