香川 信景

かがわ のぶかげ

 西讃岐を支配した有力国人・香川氏の当主。中務大輔。天正年間に織田氏と毛利氏の支援を受けて阿波三好氏と戦い讃岐西部の支配を固めた。後に土佐の長宗我部氏と同盟。同氏の讃岐制圧および伊予侵攻で重要な役割を果たした。

本拠陥落

 永禄六年(1563)、香川氏は本拠の天霧城を阿波三好氏に攻められて敗走。西讃岐は三好氏の支配下となる。香川氏の一族の中には、毛利氏のもとへ逃れた者もいた。

香川氏の讃岐帰還

 天正元年(1573)、讃岐を実質統治していた三好氏の重臣・篠原長房が主君の三好長治に滅ぼされ、三好氏の讃岐支配は大きく揺らいだ。この頃に毛利氏の支援を受けた香川氏が讃岐に帰国したようである。毛利氏に宛てて香川氏の讃岐入国を賞した足利義昭の書状が残っている。
 香川氏の讃岐復帰は、足利義昭とその背後にいる織田信長が、敵対する阿波三好氏の勢力を削ぐために毛利氏に働きかけたものだったとみられる。

織田氏、毛利氏の支援

 織田氏はさらに、庇護下にあった細川信元(信良)を通じて讃岐への影響力拡大を図っていく。信元はかつての讃岐守護で香川氏の主君だった細川晴元の子。
 天正二年(1574)とみられる三月、信元は香川中務大輔に対し、讃岐の東六郡の支配を任せることと阿波三好郡の国人・大西氏の所領を与えることを書状で伝えている。この香川中務大輔が信景。 当時、香川氏は阿波の大西氏の所領はおろか東讃岐にも支配が及んでいなかった。信長が信元を通じて香川信景を利用し、讃岐の支配と阿波への進出をねらったとも考えられる。

 この頃、三好氏は讃岐での勢力回復を図って香川氏や香西氏ら讃岐の反三好方国人を攻撃しているが、両氏はこれを撃退している。天正五年にも三好方とみられる「讃岐惣国衆」が香川氏の本吉城に攻め寄せたが、毛利氏の軍勢が讃岐に上陸してこれを打ち破った。

長宗我部氏との同盟

 この頃、信景は土佐の長宗我部元親の次男・親和を娘の婿として迎え入れることで長宗我部氏と同盟。信景は三野菊右衛門ら家老を人質として土佐へ送るとともに自身も土佐の岡豊城に赴いて元親の盛大な饗応を受けた(『元親記』)。

  天正七年(1579)頃の香宗我部親泰(元親の弟)の書状には、讃岐の十河城(三好氏の十河存保の居城)への攻撃計画に「香中」(香川中務大輔信景)が関係していることみえる。

 信景は西衆(東伊予と西讃岐の軍勢)を率いる親和を後見する立場となり、その一翼を担って讃岐における三好氏の拠点・十河城へと侵攻した。天正十一年(1583)十月、十河城攻めに活躍した香川氏家臣の秋山氏に対し、長宗我部元親も感状を出している。そこには「御勝利尤珍重候、天霧へも申入候」とあり、元親が天霧城(信景の居城)へも戦勝報告するようにと差配していることが分かる。翌年六月に十河城は陥落し、長宗我部氏は讃岐をほぼ制圧した。

天霧城退去

  しかし天正十三年七月、羽柴秀吉の四国征伐を受けて長宗我部元親が降伏。信景は親和とともに天霧城を退去して、土佐に移ることとなった。『長宗我部地検帳』のうち、天正十八年(1590)の「土佐国幡多郡山田郷地検帳」には、「香川殿様分」や「香五様分」などと注記されている土地がいくつかある。「「香川殿様」は信景、「香五様」は香川五郎次郎親和とみられる。信景は晩年をこの知行地で過ごしたものと考えられる。
 『長宗我部地検帳』には他にも三野氏や河田氏ら香川氏家臣団の名もみられ、信景に同道した家臣たちもまた元親から所領の給付を得ていたことがうかがえる。

関連人物

  • 香川之景
  • 香川義景:讃岐元吉城主(『陰徳太平記』)。
  • 香川親和:長宗我部元親の次男。信景の養子となる。
  • 山地九郎左衛門:信景の家臣。山地右京進の子。讃岐の海賊衆・山路氏の末裔。

その他の関連項目

  • 天霧城

参考文献

  • 橋詰茂「香川氏の発展と国人の動向」(「瀬戸内海地域社会と織田権力」思文閣出版 2007
  • 橋詰茂「瀬戸内をめぐる地域権力の抗争」(「瀬戸内海地域社会と織田権力」思文閣出版 2007
  • 橋詰茂「戦国期地域権力の終焉」(「瀬戸内海地域社会と織田権力」思文閣出版 2007