池端 重尚

いけばた しげなお

 大隈国祢寝院の領主・池端清本の嫡孫。弥次郎。父は清住。

「唐人」と「南蛮人」の合戦

 重尚の名は「天文十三年(1544)十一月五日付沙弥清本譲状案」にみえる。この譲状案は重尚の祖父である池端清本が、重尚の弟にあたる又七に対し、池端氏代々の所領を譲ることを記したもの。書状の最後には、清本が又七に所領を譲渡することになった経緯が記されている。

 これによれば、清本の嫡子であった清住は高岳城の戦いで討死。その嫡子・重尚は小祢寝港で「唐人」と「南蛮人」が合戦した際に「手火矢」(鉄炮)にあたって討死したため、清住の次男である又七に所領が譲渡されたことが分かる。

ペロ・ディエスが伝える合戦の経緯

 池端重尚が大隈の小祢寝港において遭遇した「唐人」と「南蛮人」の紛争について、これと符合する記録がヨーロッパに残されている。すなわち「エスカランテ報告」所収の「ガリシア人ペロ・ディエスの情報」に、ペロ・ディエスが日本で遭遇したポルトガル人と中国人の紛争が記されている。

 1544年五月、中国人のジャンクに乗船して東南アジアのパタニを出港したディエスは、中国の寧波や南京などで取引をした後に日本に向かった。港にはパタニに住む中国人所有のジャンク船五隻が停泊し、ポルトガル人が何人か乗船していた。そこに百隻以上の中国人のジャンク船が襲い掛かってきた。これに対し、ポルトガル人は四隻の小舟と三門の火砲、十六丁の銃でもって応戦し、中国人のジャンクを敗走させて多くの中国人を殺した。

  ディエス情報には、紛争があった港についての記載はないが、当時のポルトガル人の来航は薩摩の山川など南九州に限られていたことから、南九州を代表する港であった小祢寝港である可能性は高い。時期も、ディエスが日本に来航した時期と、譲状案が作成された時期とが整合している。

鉄砲伝来翌年の事件

  これらのことから、池端重尚は、天文十三年(1544)の夏か秋ごろ、小祢寝の港において中国人とポルトガル人の紛争に巻き込まれ、鉄炮にあたって討死したということになる。

 種子島に鉄炮が伝来したのが天文十二年(1543)頃なので、その翌年には南九州において日本人の目の前で鉄炮を用いた大規模な合戦が展開されたことになる。また討死した重尚は、当時既に父・清住が戦死しているから、祖父・清本の後継者として池端氏当主を継ぐ立場にあったものと思われるが、重尚がどのように紛争に関わっていたかは不明。

関連人物

  • 池端清本
  • 池端清住:重尚の父。高岳城の戦いで討死した。
  • ペロ・ディエス:ガリシア地方出身のスペイン人。

その他の関連項目

参考文献

  • 清水紘一「ポルトガル人の種子島初来年次考」(『日欧交渉の起源 -鉄砲伝来とザビエルの日本開教-』 岩田書院 2008)
  • 岸野久「パウロ・デ・サンタ・フェ・池端弥次郎重尚同一人説について」(『ザビエルと日本』 吉川弘文館 1998)