波多野 蔵人
はたの くろうど
大内武治家臣。家臣団の中心的な人物だったとみられる。父の名は波多野出雲守※1か。
蔵人が仕えた大内武治は、文明二年(1470)より大内政弘と敵対していた。文明九年(1477)九月、武治が在城していた城に、政弘方の杉重隆に属す永弘氏輔が忍び入った。波多野蔵人および入江太郎左衛門尉は氏輔との交渉を持ち、城を杉重隆に引き渡すこととなった。
同年十二月、応仁・文明の乱の終結にともない大内政弘が周防国に帰国。翌年の文明十年(1478)から豊前国・筑前国の経略に乗り出す。この頃には、武治と政弘の和睦が成っていたとみられる。十月九日、豊前国鈴隈寺にいた武治の使者として、波多野蔵人が博多滞在中の政弘のもとを訪れて太刀や馬を進上している。