美可崎城
みかさき じょう
因島南東部、三庄湾の南を扼す三ヶ崎の先端部に位置する海城。海賊衆・因島村上氏の拠点として、瀬戸内海航路を監視する機能を担ったとみられる。美可崎城からは尾道、三原など山陽沿岸部と燧灘を結ぶ航路のほぼ全域を視界に収めることができる。
因島村上氏の海城
築城時期は不明だが、築城者が因島村上氏であるとすれば、15世紀の初期頃と推定される。千守城とともに因島の要港・三庄の防衛も担っていたと思われる。
伝承によれば、美可崎城には因島村上氏の部将・南通弘が燧灘を航行する船舶から帆別銭、駄別銭を徴収する目的で、金山康時を城番として置いていたという。文明十五年(1483)、村上吉充は嫡子・亀若丸に領地とともに「札浦」(通行料を徴収する港)を譲っており、美可崎城もまた同氏の航路支配と通行料徴収を担う見張りの城であったとすれば、伝承もまた事実をある程度反映したものであると思われる。
地蔵岩の伝説
美可崎城先端部(地蔵鼻)には地蔵岩という地蔵菩薩を刻んだ岩がある。周防の高橋蔵人の女(むすめ)が琴の免許を得るため海路で都に上る途中、美可崎城の金山康時の配下に捕らえられ、康時に自分に仕えるよう強要される。しかし、女はこれを固く断ったため、これに怒った康時は浜で女を切り捨た。それからまもなく夜になるとどこからともなく女のすすり泣く声と琴の音が聞こえ始め、弱った康時が渚の自然石に地蔵尊を彫って供養したところ、異変はおさまったという。