刀「荒波」

あらなみ

 北九州から中国地方西部に勢力を誇った戦国大名大内氏の重代の刀。弘治三年(1557)、大内氏が滅びると毛利氏の手に渡り、永禄二年(1559)、毛利隆元により同じく大内氏重代の「千鳥」、「乱髪」、「菊作」、「小林」やその他の宝物とともに厳島神社に寄進された。

  剣豪として知られる将軍・足利義輝は「荒波」に関心を寄せており、毛利氏から社家・棚守房顕にこの意向が伝えられている。房顕は、一度は代わりに「乱髪」を京都に送ったが、一年後に「乱髪」は返却されて改めて「荒波」を要請され、結局断りきれず、「荒波」を義輝の使者に渡し京都に持ち帰らせた。

 永禄六年(1563)六月には義輝から厳島社へ返却されることになり、心東堂に預けられて堺まで下っていることが毛利隆元から房顕に伝えられているが、同年八月に隆元が没した際にも同地に滞留されていた。「荒波」は翌年六月になってようやく厳島社宝蔵に納められ、毛利元就がこれを祝して奉納祈念を依頼している。

  野坂房顕は「神物ヲ御所望ノ儀ハ旧例アラザル事」として当初から義輝の要請にかなり抵抗しており、いったん寄進された宝物を外に出すことはタブーであったこともわかる。特に、「荒波」は房顕によれば京都において、三十万疋(三千貫文)の値がつくほどであり、返却の過程で横流れする危険もあったようで、房顕はかなり気を揉んでいる。

 しかし、16世紀末には毛利輝元によって二度も請出されており、毛利氏の要請に抗えなくなっている当時の状況が窺える。

 

関連人物

  • 大内義隆
  • 毛利隆元
  • 棚守房顕
  • 足利義輝

その他の関連項目

  • 厳島神社

参考文献

  • 藤田直紀・編 『棚守房顕覚書』 宮島町 1975