茶入「上杉瓢箪」

うえすぎ ひょうたん

 室町期、中国から輸入された唐物で、「天下ニ六ツノ内」といわれる六瓢箪の筆頭に数えられる瓢箪型の茶入。明代、15世紀頃の作とみられ、釉薬は二重に掛けられて、変化に富んだ明るい発色を見せる。

  将軍・足利義政が収集した「東山御物」の一つで、義政から茶人の村田珠光、武野紹鴎(あるいは古市播磨守、松本珠報)の手を経て、山口の大内義隆へと伝わり、そこで「大内瓢箪」といわれた。この「大内瓢箪」は豊後の大友義鎮の弟で、陶隆房のクーデター後に大内氏の当主となった大内義長(大友晴英)に継承されたが、弘治三年(1557)、義長は長門勝山城で毛利氏の軍勢に包囲される。毛利元就は、このとき、北九州で緊張関係にあった大友義鎮に、義長の処分をただしたが、義鎮は助命を請わず、かわりにこの茶入を望んだといわれ、実際、毛利氏から大友氏に茶入は贈られている。

  この後「大内瓢箪」は「大友瓢箪」と呼ばれるようになり、『山上宗ニ記』にも「瓢箪 昔松本所持 小壷也四方盆 豊後ニ在」と記されている。戦国末期、大内氏が薩摩島津氏に追い詰められると、義鎮(宗麟)は豊臣秀吉に加勢を要請し、その謝礼として秀吉にこの「大友瓢箪」を贈った。その後、秀吉から上杉景勝に下賜され、このとき「上杉瓢箪」の名がついた。

 

関連人物

  • 足利義政
  • 村田珠光
  • 武野紹鴎
  • 大内義隆
  • 大友義鎮
  • 上杉景勝

その他の関連項目

参考文献

  • 『毛利元就展ーその時代の至宝ー共通図録』 1997