材木(石見西部)

ざいもく

 戦国期、筑前宗像社造営にあたり、石見益田で大量の材木が調達された。益田の後背地にはこれを可能にする豊富な森林資源があったことがうかがえる。

筑前宗像に運ばれる

 天正六年(1578)、宗像大社総社辺津宮本殿の遷宮が行われた。この造営にあたり「厚薄板并柾彼是三千枚 丁長四万数」の材木が「石州益田」において調達されている(「第一宮御宝殿御棟上之事置札」) 。さらに「益田殿」(石州益田の国人) も「丁長一万数」の材木の寄進を行っている(「第一宮御造営御寄進引付置札」) 。社殿の造営に対し益田経由で大量の材木が筑前宗像に輸送されている事がわかる。また中世の益田において材木が重要な交易品であったことを推測させる。

材木の供給地

 益田から積み出された材木の供給地の一つが匹見川上流域であったとみられる。年未詳八月に益田藤兼が子の元祥に宛てた書状には「澄川木引」とあり、匹見川上流域の澄川に木ひき(製材業者)がいたことが分かる(「益田高友家文書」)。また天正十一年(1583)十一月、「おほけ名」の境を定めた際、益田氏の有力者である益田兼貴と益田兼友が「材木取」の為に現地をおとずれた時に関係者から聞き取りを行っている(「益田高友家文書」)。

材木の運搬ルート

 享禄三年(1530)十月、益田氏と吉見氏が匹見川とみられる河川の権益について「書違」(互いに契約状を交わし合って誓約する)を交わしている(「益田家文書」)。この中の項目の一つに「依洪水なかれ木・より物等」についての取り決めがある。これは洪水の際の流木(「なかれ木」)と漂着物(「より物」)についての事項で、それぞれ漂着先のものとしてよいとしている。匹見川上流域で材木が伐り出されていたことを併せて考えると、「なかれ木」とは伐採された材木が流されることを想定していた可能性がある。匹見川や高津川では、上流域の豊富な材木が多く河下しされていたと考えられる。

Photos

市場・積出港

  • 益田

人物

  • 益田兼貴
  • 益田藤兼
  • 益田元祥

その他の関連項目

参考文献

  • 中司健一 「文献からみた中世石見の湊と流通」(中世都市研究会『日本海交易と都市』 2016 山川出版社)