屋久杉(材木)

やくすぎ

 大隈諸島の一つ屋久島の標高500メートルを越える山地に自生する杉。栄養の少ない花崗岩の島に生える屋久杉は成長が遅く木目が詰まっており、降雨が多く湿度が高いため、樹脂分が多く腐りにくい特徴を持つ。このため木材として優れていた。この屋久杉の伐採・利用は16世紀にさかのぼる。

屋久島に来航する「木買舟」

 天正十年(1582)五月、島津氏奉行人は種子島・屋久島の領主・種子嶋久時に対し、琉球渡航の際には島津氏へ必ず連絡することなど、いくつかの事柄を命じている。その中に「六ヶ国より木買舟着津之時、許容あるべからず事」「同じく三嶋より他邦へ木売舟は、停止せられべき事」とある。島津氏が種子嶋氏に対し、九州九カ国の内、薩摩・大隈・日向の三カ国を除いた「六ヶ国」から材木を購入しようと渡航してきた商船の受け入を禁止し、同時に種子島や屋久島など「三嶋」から他国への材木売却も禁じているものと推定される。

 屋久杉を含む屋久島の材木は、このとき多くの需要がある重要な商品として取引されていたことがうかがえる。なお、島津氏のこのような命令には、種子島(および琉球方面)と九州諸勢力、特に大友氏との経済的結合を分断する意図があったともいわれる。

島津氏による屋久杉流通統制

 天正十七年(1589)には、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の材木を得る為、島津氏に対して「杉にてもひの木にても、五十本も百本も先御上候て然るべく候」と材木、特に屋久杉の材木の献上を要求しており、これを受けた島津氏は島津忠長、伊集院幸侃(忠棟)を屋久島へ派遣している。これは、島津氏が屋久杉を直接の管理下に置く端緒となったといわれている。

  文禄四年(1595)六月、島津以久が豊臣秀吉より種子島、永良部島、屋久島の知行を得る。そして同年、島津義久・義弘の連署でもって、以久に対して「屋久島置目」が発布された。「屋久島置目」では、広義(=中央政権)はもちろん、島津氏が材木を必要とするときは、必要なだけ材木を差し出すことや、他国へ材木を出すこと、他国から材木を買いに来る船を入れることを禁じている。この「屋久島置目」により、以後屋久杉の流通は同氏の統制下に置かれることになる。

市場・積出港

参考文献

  • 鹿毛敏夫 「十五・十六世紀大友氏の対外交渉」 (『戦国大名の外交と都市・流通―豊後大友氏と東アジア世界―』 思文閣出版 2006 )
  • 山下真一「中近世移行期の種子島氏-島津氏の権力編成との関連で-」(『日本歴史』694 2006)