琉球馬
りゅうきゅうば
中世、琉球王国内において大量に飼育され、中国・明朝に向けて輸出された馬。琉球では貝塚時代の遺跡から、馬の歯の出土が確認されており、琉球馬の系統は、一説には中国の四川省や雲南省あたりの小型の馬に近いともいわれる。
1372年、明朝の洪武帝が琉球中山王・察度に使者を派遣して琉球-中国の国交が生まれた。その2年後の1376年、明朝は使者を琉球に派遣して陶器六万九千五百個、鉄釜九百九十個をもって馬四十匹、硫黄五千斤を入手している。その後も14世紀を通じて琉球馬は中国に進貢され続けており、1383年には明朝の使者が銅銭を持参して実に馬九百八十三匹を得ている。
明朝が琉球から馬を求めた背景には、万里の長城の北で尚も勢力を保つモンゴルへの軍事行動と、これに伴う軍馬の需要があったといわれる。
明朝は琉球との国交開始にともない、琉球に多くの大型のジャンク船を無償で支給し、船の操縦や航海技術を有する人材を送っており、これらは琉球馬の速やかな輸入を行うためという側面もあったとみられる。これにより飛躍的に向上した航海技術と明朝との太いパイプは後の海洋貿易国家・琉球の基盤となっていく。