水銀(伊勢)

すいぎん

 伊勢国飯高郡丹生を中心に産出され、主に銅器の鍍金料などに用いられた金属。

 古くは文武天皇(698)二年九月、伊勢をはじめとする諸国が辰砂(水銀鉱)を貢献させており、和銅六年(723)五月には伊勢から水銀が献上されている。また「延喜式」内蔵寮式諸国年料供進中にも「水銀小四百斤」が伊勢からの進上分として記載され、同じく民部省式交易雑品中にも「伊勢国水銀四百斤」がみえる。

  「建久九年内宮仮殿遷宮記」所収の同年(1198)正月三十日両宮禰宜の注進状に「水銀座人」らの濫行が報告されており、中世になると伊勢では水銀の採掘販売を行ったとみられる水銀座が成立していることが分かる。また『今昔物語』も当時伊勢に往来した富める水銀商人があったことを記している。

 一方で朝廷にも正嘉元年(1267)頃、細工所に所属する水銀供御人がおり(「経俊卿記」)、元弘年間の「内蔵寮領目録」に水銀産地の伊勢丹生山が記されていることから、水銀の採掘販売業者が同時に朝廷の供御人でもあったことが窺える。

  室町期においても、水銀は伊勢の重要な産品であり、「大乗院寺社雑事記」の文明二年(1470)六月十八日条には、伊勢通路で山村なる者に落取された「伊勢荷」が金、水銀など三千貫にも達したと記されている。伊勢の水銀は京方面の需要を満たすため、大量に運送されていたと思われる。

その他の関連項目

参考文献

  • 小葉田淳 「水銀の外国貿易・国内産出と産業発達の関係」 (『金銀貿易史の研究』 法政大学出版局 1976)