江川酒

えがわしゅ

 伊豆国韮山周辺において、同地域の領主・江川氏のもとで製造された銘酒。

  『寛政重修諸家譜』の江川氏の系譜によれば、鎌倉期、江川氏は大和国より伊豆に移り、韮山で酒を造ったとされる。その後、同氏の酒造は廃れたが、室町期に復活し、英元の代で北条早雲(伊勢宗瑞)から「江川酒」の名を賜ったという。以降、江川氏は北条氏に役の負担のかわりに江川酒を献上していたとみられ、天正十八年(1590)三月、北条氏は千津島村に対し、韮山の「江川前」で「大樽」(江川酒とみられる)を受け取り、小田原に運ぶよう命じている。

  北条氏は上納された江川酒を他家への贈答品にも用いていた。永禄十二年(1569)、北条氏政は蜜柑とともに「江川」を「山内殿」(上杉謙信)に贈っている。前年の永禄十一年、いわゆる「甲相駿三国同盟」が破綻して甲斐の武田氏と敵対した北条氏は、今度は越後上杉氏との関係強化を図っていた。
 『信長公記』天正十年(1582)三月二十一日条にも、氏政は織田信長に馬や白鳥とともに江川酒を贈っていることがみえる(『信長公記』)。 同月十一日、織田氏が武田氏を滅ぼしており、戦勝祝いの品が信長に贈られたとみられる。

  駿河では、弘治三年(1557)、京都から下向してきていた山科言継の日記『言継卿記』に江川酒が名酒として珍重されていたことがみえる。連歌師・里村紹巴も「江川」が「近国の名酒」として駿府でも知られていたことを記している(『紹巴富士見道記』)。
  また 弘治二年(1556)に下総の結城氏が定めた「結城氏新法度」では、客を接待する際に出す酒として、天野(河内国産)、菩提山(大和国産)と並んで「江川」が挙げられている。関東では三本の指に入る銘酒であったのだろう。

 『太閤記』によれば、慶長三年(1598)三月、豊臣秀吉の醍醐の花見の際に用意された酒は、「加賀の菊酒」、「麻池酒」、「天野」、「平野」、「奈良の僧坊酒」、「尾の道」、「児島」、「博多の煉」そして「江川酒」であった。江川酒が関東を代表する酒として全国的にも知られた銘酒であったことが分かる。

市場・積出港

人物

参考文献

  • 小和田哲男 「室町・戦国期の江川氏と江川酒」 (小和田哲男 『中世の伊豆国 <小和田哲男著作集第五巻>』 清文堂出版 2002)