根来塗

ねごろぬり

 中世、紀伊国根来寺で生産された朱漆器。黒漆の地塗りの上に、朱漆の上塗りが施されている。神社や仏寺の什器として使用された。江戸期では民間に流出して広く使われるとともに、「根来」や「根来物」などと呼ばれて珍重された。なお「根来塗」の名は、黒川真頼が明治十一年(1878)に著した『工芸志科』巻七が初見とされるが、本項では便宜上「根来塗」と呼称する。

現存する根来製の根来塗

 中世の根来寺は、多くの塔頭、子院、宿坊を擁し、多くの人口を抱える一大都市でもあった。このため日常使用する什器、什物の需要を満たすため、活発な生産活動が行われていたと考えられる。しかし天正十三年(1585)、根来寺は羽柴秀吉の侵攻で焼き打ちされ壊滅的打撃を受ける。漆器生産もこの時に途絶えたとされ、生産活動を裏付ける文献史料もほとんど残されていない。また根来寺坊院跡の発掘調査によって出土した漆器資料を科学的に分析した結果でも、根来塗として特筆できるような成果は得られていないという。

 現在、根来産であることが確認できる遺品は、茨城県六地蔵寺の布薩盥(ふさつだらい)※1が唯一とされる。二対四口の角底裏に「細工根来寺重宗/六地蔵寺二對内/本願法印恵範」と三行の朱漆銘(しゅうるしめい)がある。銘から、根来寺の重宗という細工師によって作成され、恵範が没する天文八年(1539)頃までに六地蔵寺に移納されたと考えられる。現在ではほとんど下地の黒が露出しているが、これは上塗りの朱漆が意外に薄塗りであったことを示すという。

江戸期に珍重された「根来」

 江戸期には、天正十三年(1585)の罹災を免れて伝世したものや、民間に流出※2した根来の朱漆器が多数あったらしい。寛永十五年(1638)成立の俳書『毛吹草』では、紀伊国の産物として「黒江渋地椀 根来椀折敷 昔寺繁昌之時拵タル道具ト云当時方々ニテ売買之」と紹介されている。

 また正徳二年(1712)に成立した百科事典『和漢三才図会』では、「盌」(椀)の産地として近江の日野や紀伊の黒江、摂津の大阪・堺、京都とともに根来を挙げている。中でも根来椀を「最佳」としており、当時、根来の漆器が珍重されていたことがうかがえる。ただ「今絶不出」とも記している。

 ただし、これら「根来」や「根来物」と呼ばれた漆器が本当に根来で製作されたものかは定かではない。現在のところ、根来産漆器とそうでないものとの違いは、技法上判別できないという。

 江戸中期の俳人・蕪村の句にも「根来」が登場する。安永四年(1775)の「朱にめづる 根来折敷や 納豆汁」では、朱色の美しい「根来」の食膳で出される納豆汁を詠んでいる。翌年の「新蕎麦や むぐらの宿の 根来椀」では、旅の途中に立ち寄った粗末な宿で、しかし新蕎麦が根来椀に盛られて出されてきた情景がうかがえる。

Photos

市場・積出港

  • 根来

人物

  • 重宗:根来寺の細工師。

その他の関連項目

脚注

  • ※1:布薩盥(ふさつだらい)とは、仏寺において一ヶ月の罪を懺悔するために行われる布薩会を修するにあたり、手を浄めた水を受ける用具。
  • ※2:文化九年(1812)の『紀伊国名所図会』では、根来椀の居尻(いとぞこ)等に天正の銘があるものが特に多いとする。天正十三年の焼き打ちの際に、根来寺から多数の漆器が流出していたのかもしれない。

参考文献

  • MIHO MUSEUM編 『朱漆「根来」−中世に咲いた華』 株式会社目の眼 2013