三河木綿

みかわもめん

 三河国において生産された木綿。

延暦年間の木綿伝来

 『類聚国史』には、延暦十八年(799)七月に「蛮船」が三河に漂着して木綿種を伝えたとある。しかし当時の木綿栽培は失敗したとみられる。

木綿栽培の始まり

 三河に木綿栽培が定着したのは16世紀初頭頃とみられる。興福寺大乗院の記録である「永正年中記」の永正七年(1510)の年貢に関する記事に「三川木綿」とみえるので、当時既に奈良でもよく知られていたことがうかがえる。

 京都の公家・三条西実隆の日記である『実隆公記』によると、実隆は大永三年(1523)七月二十日、連歌師の宗牧の誘いで三河の僧・西信と対面しており、その際、西信から木綿二端を献上されている。この木綿は西信の在地である三河の木綿であったとみられ、贈り物に用いられる程の高品質であったとみられる。

木綿の流通経路

 天正二年(1574)の『船々取日記』では知多の内海舟が大湊への入津料として「もんめん壱たん」を支払っていることがみえる。三河木綿が伊勢海水運によって対岸の伊勢国に運ばれていたことがわかる。

 伊勢に運ばれた木綿はさらに陸路で京都方面に運ばれた。永禄三年(1560)と推定される年、三河商人が運ぶ木綿荷が伊勢から近江に通じる「伊勢道」で、近江の四本商人によって差し押さえられる事件が起きている。これは三河木綿の取扱権をめぐる伊勢・三河と近江の商人間の紛争であり、三河木綿の流通が本格化している状況を反映しているものと思われる。

参考文献

  • 永原慶二 『芋麻・絹・木綿の社会史』 吉川弘文館 2004