松茸

まつたけ

 アカマツの根に生える食用キノコ。発生時期は秋頃。梅雨頃に生える季節外れの松茸は早松(さまつ)と呼ばれる。日本では古くから高級食材として珍重された。

平安期の松茸

 平安前期、僧・素性は父の遍昭とともに京都北山に「茸狩り」にでかけている(『古今和歌集』)。『古今集注』はこの「茸狩り」を「松たけ求め」としている。藤原実房や九条兼実ら公家の日記にも松茸狩りの記事がみえる(『愚昧記』『玉葉』)。

 12世紀の『散木奇歌集』には「(松茸を)おそく焼くなど言ひけるを聞きて詠める」歌が収められており、焼松茸が食べられていたことが分かる。また元永元年(1118)九月に白河法皇が宇治平等院へ行幸した際の御膳に「寒汁松茸」(松茸の冷汁)があった(『類聚雑要抄』)。

室町期の松茸

 室町期以降、松茸の記録は急増する。京都周辺では平安中期以降、アカマツが優勢な森林が形成されたことに加え、室町期に山麓の開発が進み、松茸の発生に適した環境が整ったことが原因ともいわれる。

  15世紀前半に伏見宮貞成親王が記した『看聞日記』には、松茸狩りをしたことや進物として松茸が届いたことが毎年のように書き留められている。貞成親王は主に伏見山麓の月見岡に遊山に出かけて松茸を採っていたが、ある頃から「松茸一本も不求得」ことが多くなっており、時には「無念也」と心情を記している。実子の彦仁王が後花園天皇として即位して以降は寺院や「室町殿」(将軍家)から進物があるようになり、松茸も届けられている。

贈答品

 松茸は奈良の寺院でも進上物として使われ、賞翫された。『大乗院寺社雑事記』(興福寺の大乗院門跡尋尊の日記)や『多門院日記』(興福寺の多門院院主の日記)に、それを見ることができる。特に大乗院では「松茸事」の行事があり、各所から瓶子(酒壺)とともに松茸が届いている。長禄元年(1457)十月の記事で既に「恒例松茸事在之」と記されているので、これ以前から行われていたことがうかがえる。

 松茸は禁裏への献上物ともなった。吉田兼好は『徒然草』の百十八段で「雉、松茸などは、御湯殿の上に懸かりたるも苦しからず。その外は、心うきことなり」としており、松茸を禁裏の御湯殿にあっても見苦しくないものとみなしている。実際、禁裏では好まれており、禁裏の女官たちの日記である『御湯殿上日記』には室町・戦国期に将軍家や貴族、寺社、その他の有力者から松茸が禁裏に届けられた記事が数多くみられる。

松茸料理

 松茸の料理としては、例えば大永七年(1527)五月二十三日に山科言継は武者小路家で父親とともに松茸汁をよばれている(『言継卿記』)。14世紀中ごろ成立の『庭訓往来』には「酒煎(さかいり)の松茸」がみえる。古注によれば「味噌ヲ少シ入レテ酒ヲ以テ煎ル」ものであるという。同時期の『新札往来』には茶の子(茶請)として「干松茸」が登場する。

暗喩

 17世紀前半成立の仮名草子『昨日は今日の物語』には、吉田兼見(吉田神社の神主)から松茸を贈られた際に細川幽斎の詠んだ狂歌が書きとめられている。このとき、吉田家の山に松茸が生えることは世間には秘密にしてあり、兼見は幽斎に進上する際にも口外しないことを頼んでいた。

 松茸のおゆるをかくす吉田殿わたくし物と人やいふらん

 「おゆる」には生えると勃起するとが掛けてあり、「わたくし物」に、秘蔵の持ち物と男の一物とが掛けてある。つまり、吉田殿は松茸のように大きくなった自分の物を隠すのに苦労している、というような意味になるようである。

Photos

市場・積出港

  • 京都
  • 奈良

人物

  • 吉田兼見:吉田神社の神主。自家の山で松茸が採れた。
  • 細川藤孝(幽斎):幕臣。後に織田、豊臣に仕えた。

その他の関連項目

参考文献

  • 岡村稔久 『まつたけの文化誌』 山と渓谷社 2005