肥鰯(干鰯)

こえいわし

 三河国や伊勢国など有力な木綿生産地に肥料として出荷されたとみられる鰯。

 天正二年(1574)『船々取日記』(伊勢国大湊への入港船に対する津料徴収を目的に、大湊の自治組織・大湊公界によって作成された請取記入帳)には、この年の八月五日、「しの嶋小五郎舟」が「こえいわし」を積んで大湊に入港していることがみえる。

 これは近世の元禄五年(1692)『色物差出帳控』にみえる「こゑいわし」と同様のものであると推測され、当時、既に「三河木綿」として知られていた三河国産の木綿や、おそらく同時期には生産が始まっていたとみられる伊勢国産の木綿の栽培時における肥料として使われていたとみられる。「しの嶋」は三河湾に浮かぶ篠島であり、この「こえいわし」は伊勢神宮の御師と思われる堤太夫に売却されたのだろう。

  また大湊を外港とする宗教都市・山田には15世紀末から16世紀中頃にかけて多くの座が確認されるが、その中には永禄元年(1558)に確認される「鰯座」があり、上記の肥鰯の商売に関わっていたのではないかと推測される。

市場・積出港

参考文献

  • 綿貫友子 『中世東国の太平洋海運』 東京大学出版会 1998