答志
とうし
志摩国・志摩半島と三河国・渥美半島の海峡部に浮かぶ答志島北東にあった港町。守護役としての本警固(守護が設置した海関)が置かれるなど海上交通、水運の要衝として栄えた。
答志は中世を通じて伊勢海水運の拠点を担っていたが、明応七年(1489)八月、明応大地震とそれにともなう大津波により国崎や相差など志摩国の他の港とともに大きな被害を受けたことが『皇国記』に記されている。
答志が災害から復興した戦国期・天正年間、伊勢・大湊への入港記録である『船々聚銭帳』(永禄八年(1565))や(『船々取日記』(天正二年(1574))には、大湊へ答志の船が物資を積載して入港していることが確認される。また元亀元年(1570)頃の史料から、徳川家康は、駿河を支配する武田氏から徳川氏領内に来航する答志からの廻船の抑留を要請されていることが分かる。これは徳川氏と同盟関係にあった武田氏が伊勢、志摩を支配する織田氏と敵対関係にあったためで、答志の廻船が名指しされていることから、当時、答志が志摩の代表的な水運拠点と認識されていたことがうかがえる。
このような大湊や三河など伊勢海水運を担ったのは小型の廻船であったといわれるが、天正元年(1573)十月には答志の船が坂東へ下っており、答志には関東方面へも航行する大型の廻船が発着していたものと思われる。
参考文献
- 綿貫友子 『中世東国の太平洋海運』 東京大学出版会 1998