塔寺

とうでら

 恵隆寺と塔寺八幡宮の門前に開けた宿場町。会津盆地の西縁にあって盆地と外界とをつなぐ交通の要地を占めた。塔寺から山道に入り盆地外界に向かう街道は三つに分岐し、一つは近世の沼田街道となって上野国・沼田に通じ、一つは越後国・長岡へ、もう一つは津川を経て越後・北蒲原郡に抜ける。

街道の要衝

 天正十八年(1590)三月、伊達政宗は塔寺の「御子大夫」を前々の如く二十六人と定め、「南方(小田原北条氏)に脚力(使者)一年ニ五度可相立」ことを定めている。塔寺八幡の「御子大夫」は交通の要衝・塔寺にあって沼田街道を往来していた。

塔寺の町場

 塔寺は住人が「町寺中之物とも」と呼ばれる「町」だった。中世塔寺について記す心清水八幡宮の年代記『塔寺八幡宮長帳』には米・麦等の売買、売値に関する記事が多く、蘆名氏の徳政令、選銭令なども詳細に記録されている。このことから塔寺には市もあったとみられ、「御子大夫」らのように各地を往来する人々によって様々な物資が集散されたと考えられる。

塔寺の住人組織

 また塔寺は住人らによる自治的な都市でもあった。明応九年(1500)、塔寺住人は「公方」(蘆名氏)からの猪垣役賦課を拒絶している。永正十五年(1518)に近隣の朝立と山林について争った際にも塔寺八幡宮の神官や「むら・ちやうの人々」が中心となって黒川(蘆名氏本拠)での訴訟対決に勝訴している。16世紀後半には塔寺八幡の修正会をもっぱら金子氏ら塔寺住人が支えており、彼らの経済力の高さがうかがえる。

神社・寺院

  • 塔寺八幡宮
  • 恵隆寺

人物

  • 戸之内殿
  • 金子弥二郎

参考文献

  • 大石直正 「陸奥国の戦国都市」 (大石直正・小林清治 編 『陸奥国の戦国社会』 高志書院 2004)