園湊(湊原)

そのみなと

 中世、奥出雲とつながる斐伊川の日本海への接点だった神門水海(現在の神戸川河口部)北側に位置する港町。斐伊川の河川水運で運ばれる雲州鉄の陸揚げ地として栄えたとみられる。

神門水海の「大渡」

 天正三年(1575)六月二十三日、島津家久一行は杵築大社参詣を終えて陸路で石見に向かう途中、「大渡」で渡賃を納めている。これは神門水海を渡った際のこととみられ、園湊には「大渡」があり、交通の要衝として賑わっていたことが推定される。

斐伊川水系の海の玄関口

 観応元年(1350)、三隅氏討伐の軍勢を支援するため、足利尊氏は出雲守護代・吉田厳覚に命じて園湊から兵糧米二千石、大豆五百俵を石見に輸送させている。これは園湊が斐伊川、神門水海の積出港であったためとみられる。同水系流域の物資が園湊に集積されて、海路で各地に運ばれていたことが窺える。

鉄の積出港

 戦国期、尼子氏は日御碕社と提携し、雲州鉄の積出港を宇竜に限定することで鉄駄別(鉄への流通課税)を同地で徴収しようとしていた。永禄十二年(1569)十一月六日尼子勝久判物によると、以前は杵築でも鉄駄別を徴収していた時期があったことがわかる。中世、園湊から杵築へは駄渡街道が延びており、園湊が斐伊川を下して運ばれる鉄の積出港となっていた可能性が高い。さらに永禄六年(1563)五月廿九日尼子氏奉行人連署奉書から園湊には日御碕社領があったことが確認され、日御碕社が尼子氏の支援で鉄流通支配を進めていた状況を推察することができる。

参考文献

  • 井上寛司 「中世山陰における水運と都市の発達ー戦国期の出雲・石見地域を中心としてー」(有光有学・編 『戦国期権力と地域社会』  吉川弘文館 1987)