新宮

しんぐう

 熊野三社の一つ・熊野速玉大社の門前町。熊野川上流の本宮や那智の外港として、また戦国期は奥熊野を支配した堀内氏の本拠としても栄えた。中世、海運で活躍した熊野神人の拠点であり、同時に熊野川上流部から下される木材や檜皮の積出港であったとも思われる。

東国から新宮への年貢輸送

 永仁三年(1295)八月の「三河国碧海荘米配分案」によれば、熊野本宮は三河国碧海荘の十八郷に対して「熊野山日御供米」を供出し、上総国畔蒜荘から「新宮津」までの「運賃雑用」として配分するよう指示している。上総国畔蒜荘は当時、熊野社領であり、同荘の年貢が海路で新宮まで運ばれたことが分かる。三河国碧海荘に米が支給されたのは、同荘の住人が梶取・水夫として運搬業務にあたったためであると推測される。既にこの頃、新宮を目的地とする遠隔地間の輸送システムが形成されていたことがうかがえる。

戦国期の駿河と熊野山を結ぶ航路

 永禄十一年(1568)三月、遠江・新居の奉行に宛てられた書状には、駿府から熊野山へ御最花(国内の熊野社領年貢や檀那からの寄進の総体と推定されている)二百十貫文が船で輸送されること、この船に対して諸役賦課をしてはならないことが記されており、この指示は毎年同様だとしている。おそらく先述の永仁三年の事例から、この船も新宮へ向かうと推定される。室町・戦国期においても各地から年貢や寄進が海路で運ばれていることが分かる。

神社・寺院

  • 熊野新宮

城郭

  • 新宮城

参考文献

  • 綿貫友子 『中世東国の太平洋海運』 東京大学出版会 1998