下津井
しもつい
中世、独立した島嶼であった児島(現・児島半島)の南西端に位置した港町。瀬戸内海の喉首を占める地勢上、瀬戸内海航路の重要な寄港地として、また水運の拠点としても栄えた。
平家方水軍の拠点
平安末期の源平合戦において、西国で勢力挽回を図る平氏の船団が下津井に停泊していた。この頃には大規模な港湾施設が整えられていたことがうかがえる。
寄港地として台頭
鎌倉末期から南北朝期以降、児島と本州の海峡部が河川の堆積土砂によって船舶の航行が困難になっていく。このため室町・戦国期には児島南岸を廻る航路が主流となっており、船舶の下津井寄港の事例が多くみられるようになる。
水運の拠点
文安二年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、、三十三隻の下津井船が兵庫に入港しており、下津井が水運の拠点であったことを示している。下津井船の積荷の主流は小嶋(児島)塩で、4820石が運ばれており、下津井が児島産の塩の運送の大部分を担っていたことが分かる。下津井船は他には米、豆、大麦、小麦などの米穀類や、河豚干物や小鰯などの海産物を運んでいる。