室積

むろづみ

 周防灘の室積湾(御手洗湾)に面する港町。砂嘴をなす象鼻ヶ岬によって周防灘からの風を遮られた天然の良港。古くから瀬戸内海航路の要衝として栄えた。

室積の海商通り。 江戸期から明治期の豪商の町家が所々に残っている。
室積の海商通り。 江戸期から明治期の豪商の町家が所々に残っている。

町並みの形成

 峨嵋山普賢寺を中核とした門前町であったと推定されている。同寺は11世紀初期創建と伝わり、少なくとも永正年間には京都建仁寺の末寺であった。

 江戸期編纂の地誌『防長風土注進案』には「当港往昔より繁泊の場所に御座候えば、外国聘使などのため館舎設け置かれたれば」としており、外国も含めて様々な人々が寄港して賑わっていたことがうかがえる。慶長十五年(1610)検地帳によれば、室積浦の屋敷地は四町余、屋敷数は百二軒であった。

平安期以来の港町

 平安末期成立の歌集『散木奇歌集』には「むろつみといふ所をいでて、かまどといふとまりを過てまかるとてよめる」と題する歌が一首載せられている。当時、瀬戸内海航路の要衝として室積と竈戸(上関)があったことがうかがえる。『平家物語』の中では、鹿ケ谷事件の後、鬼界ヶ島に流される平康頼が途中の周防室積で出家している。

 平安末期の漢詩集『本朝無題詩』には「於室積泊即事」と題する漢詩が収められている。これによれば、室積泊には野寺があって僧が法華経文を唱え、水市社の前で巫女が卜を売っていた。また八幡と称す古社があり、別当として住む老巫女が、鼓を叩いて卜し、往反の舟が安否を問うて糧を与えていたという。

室積の遊女

 室積は遊女の町でもあった。康応元年(1389)、将軍足利義満の厳島詣に随行した今川了俊は、西下の途中に室積を通過した。彼は紀行文『鹿苑院殿厳島詣記』の中で、むかし生身の文殊を拝さんと願った人にお告げが有り、これこそ生身の文殊であるとして室積の遊女を教えたという伝承を記している。

 これに似た話は既に鎌倉初期成立の『古事談』や『十訓抄』にもみえる。『十訓抄』では、書写山の性空上人が生身の普賢を見ようと祈請していると、夢の中に、神崎遊女の長者を見るべしとお告げがあり、長者の家に行ってみると遊宴乱舞の最中で「周防むろつみ(室積)の中なるみたらいに風はふかねともささら波たつ」と歌っており、その姿が普賢菩薩にみえたという。

海賊と水軍

 応永二十七年(1420)に来日した朝鮮の宋希璟は海路で京都に向う途中に室積に停泊した。宋希璟はこの時「海辺居人皆賊徒」とみなしており、故に村の灯火を望んでも心は安らかにはならなかったと『老松堂日本行録』に記している。

 実際に室積が海賊の根拠地であったかどうかは不明だが、室積に隣接した光井保は大内家臣で水軍を率いた光井氏の本拠地だった。安芸武田氏麾下で後に大内氏に属した仁保白井氏も室積に近い熊毛郡小周防内三百石を大内義興から給付されている。毛利氏の防長経略後は、安芸高屋の国人・平賀氏が室積港湾部の所領を宛行われた。

Photos

室積海商通りの町並み。 室積海商通りの町並み。 室積海商通りの町並み。 室積海商通りの町並み。 普賢寺仁王門。寛政十年(1798)の建立といわれる。 普賢寺の普賢堂。 早長八幡宮。 みたらい燈籠堂。元禄十五年(1702)に室積浦象鼻ヶ岬に浦年寄の村松屋亀松が自費で建てたことが始まり。目的は夜中にも回船が出入りできるようにしたいというものだったという。現在の燈籠堂は平成三年に復元されたもの。 室積の燈籠堂付近から眺めた象鼻ヶ岬。御手洗湾はこの象鼻ヶ岬によって守られて天然の良港となっている。 象鼻ヶ岬先端部から眺めた室積の町。 象鼻ヶ岬に立つ遊女の歌碑。『風土注進案』に記載される室積に関わる説話内で歌が刻まれている。

神社・寺院

  • 早長八幡宮
  • 普賢寺

人物

  • 飯田石見守
  • 平賀弘保:弘治二年(1556)、毛利元就から飯田石見守跡として室積荘三百六十五石足が浦銭とともに宛行われた(「平賀家文書」)。
  • 平賀広相
  • 光井兼種:大内家臣。熊毛郡光井保を本拠とした。

商品

城郭

その他の関連項目

参考文献

  • 布引敏雄 「周防室積普賢寺縁起の系譜」(『山口県文書館研究紀要』第3号 1974)
  • 「角川地名大辞典」編纂委員会・竹内理三 『角川地名大辞典 35山口県』 角川書店 1988