湊浜

みなとはま

 古代・中世、陸奥国南部の中心都市・多賀国府から東流して仙台湾に注いでいた冠川(七北田川)の河口部に位置し、北の塩竃とともにその外港を担った港町。

 近世初期の冠川付け替え工事以前は、湊浜から現在の多賀城市八幡付近にまで海水が入り込んできたといい、湊浜は潟(入海)の水運により多賀国府と連絡できる流通上重要な河口港であった。江戸期に編纂された『安永風土記』には「商人船往来」と往時の賑わいが記されている。

  正安二年(1300)五月の留守家政譲状(『留守文書』)によれば、多賀国府の冠屋市場に「塩竃別当五郎」の在家があり、「船一艘ひらた」が付属していたことがわかる。「ひらた」とは川舟のことであり、多賀国府と塩竃が冠川、湊浜を媒介にして結びついていた可能性を示している。

 現代においても、湊浜・弁天沼のそばに建つ湊薬師と、その本尊で鎌倉後期作とみられる岩窟に刻まれた七体の薬師如来坐像があり、そのできばえは当時の湊浜の繁栄を伝えている。

参考文献

  • 斉藤利男 「多賀の入海ー湊浜・塩竃津の中世ー」(『よみがえる中世7 みちのくの都 多賀城・松島』) 1992 平凡社