紀之湊(雑賀湊)
きのみなと
紀淡海峡東側の紀ノ川河口部に位置した港町。雑賀荘や上流の根来寺、高野山などの外港を担い、広域を結ぶ廻船が発着するなど和歌山平野の経済の中心として栄えた。
戦国期の紀之湊は、明応七年(1498)の明応大地震により、砂丘が決壊して紀ノ川の流れが変わり、その影響で壊滅した和田浦の住人が、新たな紀ノ川河口部となった雑賀荘湊地域に移住して形成された。和田浦は明応大地震以前は川湊であったが、12世紀末には「東国丸」や「坂東丸」という船名をもった住人が居住しており、既に関東への廻船基地であったことが窺える。
紀之湊が戦国期においても関東方面への廻船が発着していたことは、天正十四年(1586)、紀之湊の佐々木刑部助が関東の戦国大名・北条氏から商船の乗り入れを許可されていることからもわかる。また、紀之湊の住民(雑賀衆?)は西方へも航行したとみられ、『昔阿波物語』には紀州の船が土佐沖を経て九州薩摩で商売していたことが記されている。さらには中国・明の『籌海図編』には紀伊国の人間もしばしば入寇すると記されており、中国にも出向いて密貿易に関わっていたとみられる。
戦国期、雑賀衆は大量の鉄炮を保有・運用し、その数は湊地域だけでも三千挺あったといわれる。鉄炮の保有・運用には莫大な経費と輸入品である焔硝の確保が不可欠であり、雑賀衆が廻船業で財を蓄え、独自の輸入ルートで中国から直接に焔硝などを調達していたとも考えられる。