一乗谷

いちじょうだに

 戦国期、越前を中心に広域を支配した朝倉氏の本拠となった城下町。。越前平野主要部へ通じる足羽川、美濃街道に北接する南北の細長い谷に形成された。朝倉氏のもとで文化人、要人が訪れるなど文化的、政治的にも繁栄した。

朝倉氏の本拠地

 城下町としての発展は15世紀後半以降とみられる。朝倉氏の戦国大名化の基礎を築いた朝倉孝景により町作りが行われ、少なくとも文明九年(1477)七月には朝倉氏の本拠として成立していたことが史料から分かる。一乗谷は『大乗院寺社雑事記』の文明十四年(1482)閏七月十二日条に「朝倉館一乗大焼亡」、「随分者共焼死云々」などと記述がある。この頃には大規模な都市であった。

遺跡からみる一乗谷の町

 先述のように一乗谷は文明十四年に一時焼亡したが、永正七年(1510)頃には復興していたとみられる。遺跡の発掘調査によれば、この時期から墓が増加し、子供の墓も出現するようになる。復興後の一乗谷は家臣の家族の移住などによってさらに人口が増加していたと推定される。遺跡から町屋が確認されるのもこの時期からであり、復興を機に一乗谷が都市として発展していったことが分かる。

朝倉氏滅亡と衰退

 しかし、天正元年(1573)八月、朝倉氏の滅亡に伴い、一乗谷は織田勢の兵火により焼亡する。『朝倉始末記』によれば、「館ヲ始メテ館々家々、仏閣僧坊」の全てが放火されて「灰燼」となったという。 その後は一向一揆の越前占領、さらに柴田勝家の北の庄への町移転に伴って急激にさびれた。16世紀末には水田の底に埋もれることになる。

神社・寺院

  • 南陽寺

城郭

  • 一乗谷城
  • 朝倉館

その他の関連項目

参考文献

  • 小野正敏 『戦国城下町の考古学 一乗谷からのメッセージ』 講談社 1997