京堺商人衆と陶晴賢の流通政策(参考史料)

[史料1] 『大願寺円海書状』

 御奉書之旨、具以令拝見候、
松鶴軒就御歸落(洛)、京堺之商人駄別安堵料之内万疋之事、於京都可致調進一通之儀認、對法泉寺可渡申之通、被 仰出候、尤其旨存候、雖然彼駄別安堵料之儀者、於當嶋町諸国上下諸商人衆令内談、相調申事候之条、一通認對法泉寺難渡申候、但来九月十四日當町入事候之条、定而京堺商人衆早々可爲着嶋候之間、御奉書之趣則可申聞候、仍右就安堵料之儀、去十八日従房栄茂對堺商人衆、延引以外不可然之由堅被仰上候、同従當寺も其分數度申上候、乍去今程賊船多之而、室塩飽舟度々不慮之儀出来候、就其京堺商人衆各々致迷惑之由風聞候、何茂来法会ニ必右安堵銭之儀ハ可致馳走之通、堅固可申与候、又唯今 御奉書之段、房栄至御陣所急度可遂注進候、此等之趣、可然之様御披露所仰候、恐惶謹言、

      八月廿六日                          円海(花押)
伊香賀民部少輔殿
毛利 掃部允 殿

[史料2] 「宣堯書状」

尚々商人衆覚悟、餘如在之仕合候、か様成儀を申捨ニ候て被上候之儀者、向後御分国中江下間敷覚悟候哉、不審千万候、
京ならびに堺津商人衆被申請駄別御免除候付而、御礼銭万疋之事、於京都御用之由候哉、難其儀成候哉、貴僧以御裁判、於厳嶋山口間可有調進通之御請文尤候、雖然於京都商人衆馳走候へハ、二万疋与被仰候、辻茂合候て可然候、定而従房栄具可被申候、又爰元之時宜申度候へ共、御使僧御存知候間、不能詳候、万開陣之時可申候、恐々謹言、
九月三日                     宣堯(花押)
大願寺上人御中

[参考史料Ⅰ] 「宗光書状」

尚々御判物之儀、此方之商人衆致拝見度被申候ヘハ、此薬屋之与三右衛門方へ渡被下候ハゝ、可畏入申候、猶委曲之段者、此人可被申候間閣筆候、此外不申候、
以幸便一筆令啓上候、仍而其方于今物騒(原文は「騒」ではなく「公」に下心)無一定旨承及候、千万無御心元存候、就其今月我等も罷下度候へ共、各當年之儀者海上も不静候間遠慮候、必々来三月者罷下、御礼可申入候、将又先度陶殿様より堺衆へ渡給候御判物、此仁ニ可渡賜候、恐惶謹言、
        九月十二日                    宗光(花押)
      大願寺 御同宿中

[参考史料Ⅱ] 「陶晴賢書状案」

京堺之商人号駄別料、近年對村上右近大夫隆重、於芸州厳嶋可受用之由、先代被申付候、件之駄別之事更無謂事之条、爲當代被停止候、右之駄別之事者、至薩广従堺之濱往返之商人、前々者遂其節之由申候、於厳嶋隆重受用之儀者、曾以不可有之候、此等之趣御一門中江御演説干要候、猶江良丹後守可申候、恐々謹言、
      卯月廿日                                晴賢
    村上太郎殿
    今岡伯耆守殿 御宿所

[参考史料Ⅲ] 大内氏奉行人連署奉書

唐荷駄別役銭之事、村上善鶴丸愁訴之条、被仰付之処、厳島其外於津々浦々荷物点検之間、迷惑之由、言上之趣遂披露、被成御心得候、然者於堺津、日向薩摩唐荷役如旧例可申付之由、対村上堅固被成御下知候、各得其心、無煩往返之覚悟肝要候也、仍状如件
  五月廿一日                             隆著 (花押)
                                    興理 (花押)
                                    隆景 (花押)
  堺津紅屋
     五郎右衛門男
     各中

史料出典

  • 史料1
    「大願寺文書」68(『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』 1978)
  • 史料2
    「大願寺文書」69
  • 参考史料Ⅰ
    「大願寺文書」70
  • 参考史料Ⅱ
    「大願寺文書」67
  • 参考史料Ⅲ
    「厳島野坂文書」44(『広島県史 古代中世資料編Ⅱ』 1976)