金剛福寺

こんごうふく じ

 四国最南端の足摺岬の先端に位置し、平安期以来、朝廷や摂家の厚い保護をうけて幡多郡一帯に勢力を持った寺院。弘仁十四年(823)、嵯峨天皇の勅詔により、真言宗の開祖・空海が開基となって建立したと伝えられる。

金剛福寺の本堂。
金剛福寺の本堂。

  鎌倉期、幡多郡を荘園として持つ摂家・一条家も金剛福寺に帰依するようになり、正嘉元年(1257)、阿闍梨慶全の要請で造営料を寄進し、蒙古襲来に際しては、金剛福寺に祈祷を依頼している。

 また四万十川下流に設けられ、同河川の水運を管理する船所職も、一条家によって金剛福寺、もしくはその傘下の寺の僧が任じられており、金剛福寺は幡多郡内の流通にも大きく関与していたと思われる。

 ただ、この時期、金剛福寺は度重なる火災に見舞われて、さらに寺領年貢の未納や押領もおきており、必ずしも経営はうまくいってはいなかったようである。

  室町期、一条教房が中央の混乱を避けて幡多郡に下向し、土着した土佐一条氏が戦国大名化すると、金剛福寺は同氏との結びつきを深めつつ代々の寄進を受けて大きく繁栄する。

 金剛福寺は幡多郡にやって来る堺商人の信仰も得ており、天文九年(1540)八月、堺の奈良屋与二郎という商人が仏餉器を寄進したことが『大日本金石史』にみえる。金剛福寺の繁栄について『南路志』には、「寺領往昔ハ八千石、長宗我部時代ハ三千石」と記されており、一条氏時代の金剛福寺全盛時の勢力とその後の衰退がうかがえる。

高知県土佐清水市足摺岬

 

Photos

金剛福寺の山門。足摺岬に立地する金剛福寺には南国の植物が生い茂っている。 足摺岬。

関連人物

  • 奈良屋与二郎

その他の関連項目

  • 足摺山衆

参考文献

  • 中山進 「二、古代」「三、中世」 (『土佐清水市史(上)』 1980 )