大和 相秀

やまと そうしゅう

 周防国防府の鋳物師。永正十年(1513)作の浅処寺鐘(下松市、現亡失)に「大工防符大和相秀」とあり、この銘から防府の鋳物師であることがわかる。

 明応三年(1494)、大内政弘、義興父子らが大内氏の氏寺・氷上山興隆寺に梵鐘を寄進した。この梵鐘を鋳造したのが相秀だった。この翌年、相秀は遠く琉球首里円覚寺の梵鐘を鋳造している。同寺の殿前鐘と殿中鐘の二つがそれで、大明弘治八年(1495)の年紀とともに「大和氏相秀」の名がある。二つの梵鐘は典型的な和鐘の形式を備えているものの、琉球国王たる尚真王の金象嵌(刻線に金を埋め込む)が施されるなど独特の手法もみられる。

 相秀が琉球円覚寺の梵鐘制作を行った背景には、大内氏や禅宗寺院の対外交易ネットワークの存在が指摘されている。また15世紀後半、北九州の小倉鋳物師が琉球鐘を多く造っていたが、彼らは15世紀中頃から周防・長門に移住したとみられている。相秀も周防に移り住んだ小倉鋳物師の影響を受けて琉球向けの梵鐘を鋳造した可能性がある。

 なお明応七年(1498)四月二十三日に周防国富田保の上野八幡宮に奉納された梵鐘(現在は兵庫県加古川市円照寺所蔵)の銘にも「大工大和相秀」とあり、これも相秀の制作であった。円覚寺の二つの梵鐘と作風も近似しているという。

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関連人物

  • 大内政弘
  • 大内義興

その他の関連項目

参考文献

  • 山口県編 『山口県史通史編中世』 2012