山査

さんさ

 16世紀末、朝鮮の役で明朝に降った日本兵の一人。剣術に通じ、明朝の京営(京師在駐の禁軍組織)で剣術の教師となった。

明に渡る

 山査という日本兵の事跡の一端は、楊東明『青瑣藎言』巻之下「救降夷山査疏」にみえる。
万暦二十一年(1593)、朝鮮の役の最中、明軍経略の宋応昌麾下にあった謝用梓は、朝鮮の二王子(臨海君、順和君)の返還交渉のため日本の名護屋に赴いた。謝用梓が朝鮮の王子を解放して帰還した際に、陪臣として帯同してきた人物がこの山査であったという。

 明に渡った山査は京営に送致された。そこで剣術の腕を見込まれて剣術の教師に採用され、通常の倍の月餉を支給された。それ以来、軍士は倭刀を習学し、精熟して使えるようになった者は百余人に至ったという。

明軍における降倭の需要

 当時の朝鮮の役に出征した明軍の諸将は、降倭(降伏した日本兵)を積極的に麾下に収容して戦力としていた。それは日本兵の優れた軍事技術を獲得するためであり、「救降夷山査疏」の中でも、倭刀は最も鋭利で、倭人の剣術は最も精鋭であると聞き、常々剣術に熟達した倭人を獲得したいと思っていた、と当時の状況が述べられている。

スパイ嫌疑

 しかし、その後山査は東厰(明朝の諜報機関)によって奸細(スパイ)の嫌疑をかけられて拘束されてしまう。「救降夷山査疏」では、日本軍が中国人捕虜を厚遇していることなどと比較して、山査拘束の不当性が訴えられている。

  山査のような異民族の被虜人(当時は特に降倭)は、軍事技術の優秀性は認められながらも、一方では危険視された存在であったことがうかがえる。

「倭営」の出現

 なお朝鮮の役終結から二十年ほどが経過した万暦四十六年(1618)の史料には、京営における「倭営」の存在を示唆する記述がある。「倭営」の実態は不明だが、それが朝鮮の役で捕虜となった日本兵を主要な構成要員とした営であるとすれば、この頃には彼らもようやく評価されて明朝の軍事組織に編入されていたのかもしれない。

関連人物

  • 謝用梓

その他の関連項目

参考文献

  • 久芳崇 「明末における新式火器の導入と京営」(『東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲』 吉川弘文館 2010)