新納 忠澄

にいろ ただずみ

 島津忠良・貴久父子に仕えた島津氏家臣。右衛門尉、能登守。祖父は新納是久。子に新納康久がいる。

島津忠良の後見人

 忠澄の事跡は「新納氏支流系図」から概略を知ることができる。これによれば、忠澄の祖父・是久の息女(忠澄の叔母)は伊作島津家の島津善久に嫁ぎ、子(後の島津忠良)が生まれたが、善久は明応三年(1494)に不慮の死を遂げる。数年後、是久の息女は相州家島津氏の島津忠幸(運久)に再嫁するが、この時、新納忠澄はまだ幼かった島津忠良に従って田布施に移り、忠良を後見したという。その後、永禄二年(1559)九月、田布施で死去した。

  忠良は忠澄への信頼が厚く、忠澄の子の康久が生まれた際は、大弐之女や安楽雅楽助、生駒筑後介ら三人を康久の養育のために派遣している。

公方への使者

 なお「続応仁後記」には、天文十二年(1543)十二月、島津氏から「新納右衛門尉」が派遣され、公方家(将軍・足利義晴)に鉄炮五挺を献上したという記述がある。「続応仁後記」自体は史料価値が高くはないが、「新納右衛門尉」はその名乗りから新納忠澄である可能性がある。

関連人物

その他の関連項目

参考文献

  • 清水紘一 「ザビエルと新納氏一族」(『日欧交渉の起源 -鉄砲伝来とザビエルの日本開教-』 岩田書院 2008)