村上 吉賢

むらかみ よしかた

 戦国期中頃の海賊衆・来島村上氏の一族。筑前守。

高野山への書状

  永禄六年(1563)頃、村上筑前守吉賢は十二月三日付で高野山上蔵院に宛て、高野聖の来春の伊予下向のことなどについて乗圓房を使者として書状を送っている。上蔵院は戦国期に伊予の豪族たちが高野参詣の際の宿坊としてしばしば利用した高野山寺院。またこの書状の中で吉賢は高音寺の「留守」について触れ、もしこちらで御用があれば、自分に言ってほしいことを述べている。

 高音寺は伊予和気郡にあり、下向した高野聖の宿坊ともなっている真宗寺院であり、同じく永禄年間に来島村上氏当主・村上通康も高音寺に逗留中の上蔵院僧侶に和泉・堺までの便船を用意している。これは高音寺近辺にある同氏の拠点港・堀江の利用を前提としたものと考えられ、あるいは高野聖に便宜をはかろうとした吉賢は堀江周辺に影響力を持っていたのかもしれない。

浅海氏との関係

  また年未詳(永禄十年以前)の三月、周防の平郡島や屋代島を拠点とする浅海四郎左衛門尉に宛てた村上通康の書状によれば、浅海氏の「嶋中騒劇」の際、四郎左衛門尉らが来島村上氏への「堅固之覚悟」をもって行動したことについて「筑前守」から報告が行われている。この筑前守は吉賢とみられる。「嶋中騒劇」の詳細は不明だが、浅海四郎左衛門尉ら浅海氏の親来島村上派は吉賢を通じて当主・村上通康とつながっていたことがうかがえる。

 

関連人物

  • 村上通康:来島村上氏の当主。

その他の関連項目

参考文献